◎銘々の信心の焦点を力を、徳を受けるになっておかねば。力を徳を受けさせたい催し。親先生が亡くなった時にがらーんとならんように今のうちに徳を受けてくれよ。
%1お風呂と教会の比礼
%2続く交通事故
%3ぎりぎりの信心をして力を受けてくれよ。
%4原さんの事故の場合
%V


昭和四十三年九月二十五日夜の御理解


 今日は久留米の光橋先生ところの、秋の霊祭でしたが、私が奉仕させて頂きましたが、お祭り後のお話の中に、最近の合楽の信心の動きというか、神様が私どもにどう求め、どうあってほしいといったようなことを思うておられるかといったようなことを焦点にしてのお話でございましたが、最近はですね。もう合楽全体の人に今こそ御徳を受けておいてくれよ、御徳を受けておいてくれよというような働きがいっぱいあっておるということです。これはもう、来年は金光教の信心が生まれて百十年にもなろうとしております。

 %Vその間にはどれくらいたくさんの人が助かったか分かりません。けれども、その時おかげを受けて助かったという人たちがほとんどであって、現在の、これは合楽の場合といってよい。椛目から合楽の間に本当にここにお引き寄せを頂いておかげを受けたという人はたくさんありますけれども、残っておるのは皆さんだけである。

 %V今日の状態がであります。久留米の初代石橋先生あたりでも、久留米の教会から千人参りがあった、御本部にあるといったようなおかげを頂かれたのが、現在ではあのような状態である。本当に考えてみますと、金光様の御信心が日勝り月勝りとか年勝り代勝りにおかげをいただいていかなならんと仰るのに、途中で消えてなくなってしまうようなのが余りにも多いのです。ですから私どもは、ここに本当に考えさせてもろうて、私どもの信心こそはいよいよ日勝り月勝り年勝り代勝りといったようなおかげの頂けれる、その問題になるところをですね、ひとつ頂かせてもろうて、信心を自分のものにしておかなければいけない。

 %V%1今日もあちらでお風呂を頂きましてから、りっぱなお風呂ができています。タイル風呂のりっぱなものでした。けどももちろん一人風呂ですから、私が一人入らせて頂いたら、お風呂がもういっぱい、多くもない少なくもない。もうこさんばっかりにいっぱいなんです。で、私が上がってきたら、繁雄さんが入られましたら、やはり三寸以上あく。結局私のからだの大きさと、繁雄さんのからだの大きさが違うからです。ですから、例えば久留米の初代の場合でも、ああいう大徳の先生とお風呂に入っておる。いっぱいにあふれるようにある。さあその先生がなくなられたら、後はもうぱちゃぱちゃということになる。

 %V%1そこでみんなですね、そのいうなら熱い水、冷たい水なら冷たい水が、現在のここのお風呂のように、熱い湯なり水がいつでも出せれるような、尽きぬ限りのないおかげのいただけれるものを頂いとかなければいけない。いつまでも私がいるというわけにはいけん。ですからめいめいが頂いとかなければだめだ。

 そういう働きをもうしきりに感ずる。ですからもう、本当に金光教の信心のめざしというもの、天地金乃神様がおかげを受けてくれよとおっしゃる、いわゆるおかげ。取り分け合楽でそれをいうておることがですたいね、まあ今日はお話の中に桃源郷ということが出ました。暑くもなければ寒くもない、いつでもいうならば有難いといったような境地をお互い開かせてもらう信心になっておかなければならない。そういうような働きが確かにあっておる。

 最近事故が次々とあっておりますね。ついこの頃から文男さんが事故を起こしておりました。それは事故というても、ちょっとした事故ですけれども、やっぱり自動車の修理をするとなりゃ何万円もかかるのでございましょうが、この頃から秋山さんが事故でけがをされた。足の骨を折られた。

 先程妹が参って参りましてから、自分ところの前で、自分を訪ねて来よった人が自動車に跳ねられた。そのまま病院に連れていきよったから、すぐお願いしますというて屋って参りました。心配はいらんということでございましたが、本人は心配なもんでございますから、自分とこに訪ねて来よったんですから、ね。

 けれども、そこんところの話を聞きますと、大変おかげを頂いて、妹としてはおかげを受けておりますけれども、むこうの方で聞かせてもろうたところが、けがはたいしたことはなかったけれども、肋骨の骨が一本折れとった。

 もうこの頃のちょっとした怪我といやね。肋骨の骨、足の骨といや、ちょっとした怪我。ちょいとした怪我ですからね。「はあ、命に別状がなかったからよかった」と、いうのですけん、本当油断もすきもできませんよ。そりゃちょいとかすり傷じゃったとしかおもわんもん。足一本折ったぐらいのことじゃ。本当にね。「本当に軽うしてすんだ肋骨が一本折れた」と。しかし、そういう風にですねでいてます。それから今電話がかかってきてから、文男さんが事故起こしたというてから。

 %3今日麻生さんが朝の御祈念の時に、親先生からそれこそ、ふらっとした時というたらおごられるけんで、ふらっとしたとは思いませんけれども、御心眼でしょうかね()その麻生さんが頂いておることが、『「今日は一日ここで御用しとればおかげですよ」と親先生が仰った。そしてからお三宝にしいたけが、お三宝一台下げてくださった。』

 %3だから麻生さん今日一日おれとはいわんばってんか、今日は研修会でもあるから今日一日御用を頂いて今日は築水連合会の信徒会が()から研修会の方たちがあちらに参りました。そして婦人部の方たちが久留米の光橋先生のところに手分けして参りましたから、みんな午後から引き上げてくるに違いないから出ていらっしゃい。というておりましたけれども、今日は何とはなしに帰られないというふうで結局昼過ぎまでおかげを頂いた。

 %3若先生が甘木に行かなならんて、それを待ってから、甘木に若先生を送って参ったというように、だから今日は研修会のものは北野の教会に、ここに来とると思うて行かにゃいけんのです。ね、高橋さんなか今日は御兄弟の結婚式で飯塚のほうに行っておられました。それでもやっぱり研修会だから、福岡からまたでてきとんなさるです。

 %V%3今の合楽に求められるのはそれなんです。そういうようなぎりぎりの信心をせろということはどういうことかともうしますと、本当のことを本当にして、油断をせずにそして力を受けておいてくれよということなんです。

 %2私今、御祈念に文男さんが大したことはないと、どう腹をこすった程度のことだろうけれども、むこうんともこすっとるに違いない。そこで何か問題があるとでしょう。そこのとをお届けしたらしいんですが、そのことを神様にお届けさせて頂きましたら、Z『大きなのしといいますかね、乱れのしといいますか、引き幕なんかに書いてあるところの真ん中をきゅっと絞ったところを、ここんところ』を頂くんです。

 %Vね、今こそ私どもが、身も心も神様へお供えし切ったような信心、それもいつもかつもとはいわん、何か神様の御用、何か教会で何かという時には、我情我欲をそん時ぐらいは放って出てこいよと、お供えしてしまえよと、そこには神様がまたのしつけて私どもにくださるものがあるんだと。それはもうおかげじゃない。御徳というおかげなんだ。これを頂いておかんと、例えば親先生が亡くなられたら、後はがらーと()てしもうとる。

 %Vさあ自分たちじゃだしようもない。また水入れてわかさにゃならんというようなことじゃできんから、ちゃんと熱い湯なら熱い湯、冷たい水なら冷たい水が、ちょっとこうしてひねればこうして出てくるくらいなお徳を頂いとけ、無尽蔵に限りないおかげという。

 %4ね。ですから本当に原さんなんかも、昨日おとといですかね、ここの霊様のお祭りの時に、息子さんの自動車で帰られて、そこば出がけに横からぶつかってもちろん道路まで出てないとこに、つっかかってきたらしいけれども、ところが向こうは若い者ばかり五人ぐらい乗っておって、もうてんで強引に「おまえが悪かろう、おまえが弁償しろ」それでびっくりしてですね。こりゃとてもいかん。すと、こう悪くなったから、私どもが弁償すりゃよかろうからちうようなことがあったのです。

 %4ね、霊様のお祭りの帰り、本当に最近は油断もすきもできないといった感じ。そこで、油断もすきもできないというところがです、信心の上に「油断をするな、すきを作るな」と、それが何を意味するのかともうしますとですね。

 %4お互いそこんところの信心ができなければならないということなんです。そして、そこんところに力を受けてくれよということなんです。

 %4そこで、日ごろの信心がものをいうわけなんです。お母さんが乗っておられたですから、原さんがですね、とにかくお取り払い頂いたと思うてから馬鹿とあほうになってこちらが払う気持ちになったらいい。てんでこわだくりよったから、こちらが払うということになったから、もう向こうも帰った。と、ね、ところがどっこい合点がいかんのはお父さんの方、どげん考えたっちゃ道まで出とらんとに、向こうからつっかけてきた、おそらくあれはわけえもんばかりで飲酒運転か何かじゃったろう。

 %4そして、またここにお届けに見えました。家内がいらんこつばっかりいうてから金払うちいうたもんじゃけんで、ちいうわけなんです。だから私がここからね。そこに今から行くといわれるわけなんです。吉木の人だったらしいんです。だから、いかんでもいいです。電話かけなさい。

 %4それで、昨日はあげんいいよったけれども、おはらいは出来ませんからねということをいいなさい。そしたら、電話であはははとわろうてですね。とにかく自分たちが悪かつばってん強引にはらわするごつしてきたということは向こうにも分かっておったらしく、そのままに済んだわけなんですけれども、問題は原さんがですねそのことによって力を受けられたんです。

 %4ね、こちらが馬鹿と阿呆になって、そげんいうなら向こうが悪かばってん、こっちが払おうという気になられたわけなんです。そこにはなるほど、もちろんこちらの方も()けれども、むこうもだいぶん()とる。

 %4けどもそこは無傷であり、お金を出さんですむおかげを受けたけれども、そのへんの腹のくくりどころですね。そういうことによってです。あの力を本当に頂く、頂かせようとされる働きを感じんわけにいかんです、最近私は。

 %4ね、いまあるをうれしと思うような心がどのような場合にでも頂かせてもらえれる信心でなからなきゃならんです。

 %Vでも本当にひとつ私どもがですね、これはお話じゃない、本当にめいめいがです力を受けておかなければ、そういうおかげを受けておかなければ、ね、さあ中心が、ここでいうなら私が、この大きな体が消えたとするなら、後はまたぱちゃぱちゃするお風呂にはいらにゃならんようなことじゃいかんでしょうが。

 だから、めいめいがその信心を頂い初めて日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげということになってくる。金光様の信心もここまでを頂かなければそういうことにはならんのですね、ですからどうでもひとつ、もう、ここでは根限りそこんところにお互いがひとつ焦点を置いて現在合楽におかげを頂いておられる人すべてが、そこんところを頂くための信心修行がね、今こそなされなければならん。

 今日は研修会にみんなで北野に行く、または霊様のお祭りにああ今日はいかんでもよかったというような考え方じゃなくて、今日はやはり研修会の日だから、やっぱここまでは出てくるような気持ちが、私は必要じゃないだろうか。そこに油断をせんですむという信心があると思うのですよ。

 ね、こちらが今日一日をのしつけて神様の前に奉仕する、そこに安心が生まれる。麻生さんが頂いておる通りである。その安心の徳こそがいよいよ無尽蔵の徳につながる御徳になると私は思うのですよ。

 ですからこのへんのところを小さい我情我欲にとらわれずに、すっきりおかげを頂きたいものだと、そしてそういう力をめいめいが頂きたいものだと、今なら頂けれる。そんな気が致します。ここでは頂けれる、頂く気になれば。どうぞお願いします。